ペチュニア
レディ
your presence soothes me
夜、街の喧騒もだいぶと静まりそろそろ店を閉める時間が近づいて来た頃、は片付けや明日のための仕込みをしていた。お皿を洗いながら少し残ってしまったお団子をどうしようかと見つめる。自分で食べてもいいのだが、時間を気にしてしまう年頃だ。かといって捨ててしまうのは勿体無い。明日のおやつにでも置いておこうか。食べるのは自分だけだからそこまで神経質にならなくてもいいかな、と思ったところで入口の方に影が差したのに気付き目をやる。戸は閉めてあるがその上半分ほどは透明な硝子でできているのでその影の主の姿は充分に確認できた。頻繁に訪れる常連ではないけれど、しかし定期的に、それも店仕舞い間近に現れる客に目を細め小さく手招く。それを見て静かに店に入ってきた本日最後の客はゆっくりとカウンターに歩み寄りの目の前の椅子に腰を下ろした。



「いらっしゃいませえ」
「……変わりねェか」
「はい、おかげさまで~」



お茶を出しにっこり笑うにその客、高杉晋助も口元をゆるめたのだった。

寒い季節の路地裏で二人は出会った。一際気温の低い夜、辺りは当然暗く雪が降っているというのも相俟って以外その道を歩いている人はいなかった。友人の家に招待された彼女は店を休み一日出かけていて帰りが少し遅くなってしまったのだが、自宅が見えてきたころ近くの壁に背を預け座り込んでいる人影を見つけたのだ。歩く速度を緩めそろりそろりとその影に寄って行くと僅かに鉄のにおいがし、はまさかとそばにしゃがみ込む。女物を思わす派手な着物を纏う男だった。においの正体は覆うように包帯が巻かれた左目かと一瞬思われたがそこに血が滲んでいる様子はなく、少し下を見ると隠すように片腕で押さえられている横腹が。暗いせいでそこに血が滲んでいるのかは分からなかったが、は間違いないと思った。男はもう片方の手にある刀を少し強く握り彼女を睨み付ける。



「てめェ、」
「お兄さん、怪我されてます…?」
「…………」
「家、そこなんでどうぞいらしてください」
「……あァ?」



に向けられた目はさらに鋭くなったが気にせず、男を支えるために横腹に触れないよう腕を回した。「オイ、」という男の声にも反応せずゆっくり持ち上げる。男は瞬時に考えた。この女は何をするつもりなのか。これほど怪しい存在に、厄介事丸出しの状況に、何故自ら歩み寄ってきたのか。これは自分にとって害を為すものか。しかしどう見てもただの女で、警戒心がまるでない。演技の可能性もなくはないが触れている腕や体格からみて鍛えられていない非力な人間のそれだ。もしそういう、特殊な訓練をしていたのなら見抜けなかった自分の失態であろう。一先ず、身体を支えるのに苦戦しているこの女について行くことにするかと男はゆっくり立ち上がった。それには安心したように微笑み家へと案内し、裏口から中へ入らせる。居間に座らせてすぐ暖房を入れ、風呂の準備をして水と布と包帯、手当てに必要なものをある限り持ってきた。



「えっと、」
「……自分でやる」
「じゃあ着替え、持ってきますねえ」



わざわざ家に連れてくるくらいだから処置に自信があるのかと思えば物だけ揃えて不安げにするものだから男は小さく笑う。自分でやると言われほっとして着替えを取りに部屋を出て行く。家には自分用の着物、つまり女物しかないのだが、男が着ていた着物を頭に浮かべ大丈夫だろうと浴衣を一枚持ち居間へと戻った。



「入っても大丈夫ですか?」
「…あァ」



男の返事を聞くと同時には襖を開け中に入る。少し小さいかもしれないがと浴衣を渡し、脱がれた着物を取った。先ほどは見えなかったが患部の出血がそれなりのものだったのだろうということが明るい部屋ならよく分かる。疑問に思うところはあるが訊かないほうがいいのだろうとは本能的に感じ何も言わなかった。まだ手当てをしている様子を見て着物を脱衣所に持っていき、温かいお茶を少しの和菓子と果物を用意する。



「もうすぐお風呂が沸くと思うのでお茶でも飲んで待っててくださいねえ」



粗茶ですがと笑って机にお茶と和菓子などをおくにちら、と目をやった。



「お腹空いてます?ご飯の方が良いですか?」
「……」
「あらまあ、毒を盛ったりなんてしませんよ~?」
「…ふっ、」



本当になんと無防備な女なんだろうか。男は笑いのような、ため息のような息を吐く。それには首を傾げたが「ここにあるので良い」と返事をもらい嬉しそうに頷いた。大人しくお茶を飲み置いてある蜜柑を手にとって皮を剥いている男をはにこにこと微笑みを浮かべながら見つめる。何かありましたと言わんばかりの怪我をして路地裏に座り込んでいた男にとて全く警戒していないわけではなかった。それでも血の気が失せた顔を見て、この寒い雪の日に放っておくことはできない。怪我に集中していたせいで意識していなかったが刀を所持しているし、本来なら病院に連れて行ったほうがいいのだろうが彼にとってそれはよくないのだろうと判断し連れて帰ったのだ。怪我に刀に鋭い目つき。危ないかもしれないと思ったがどうだろう。今のところそばに刀をおいているものの手に取る様子はないし脅されることもないし、もぐもぐと蜜柑を食べる姿はいたって可愛らしくの目に映る。それにしても、と彼女は記憶を辿った。改めてみるとどこかで見たことがあるような。



「お兄さん、何処かで会ったことあります?」
「……口説いてんのか?」
「いえ、なんだか初めましてな気がしなくて…」



うーんと首を捻る彼女に男はくつくつと笑う。



「あ、そういえば私、と申します~」
「クク…高杉晋助だ」
「……あらまあ」

が高杉晋助を家に連れ帰った翌日、彼女が目覚めたときにはすでに彼は家を出ていた。脱衣所に置いてあったはずの着物に手当ての際に出た血のついた布やゴミまでも姿を消していて一瞬夢かとも思ったがゴミ箱に残っていた蜜柑の皮が現実であったことを示していた。高杉晋助、その名を聞いてどうりで見たことがあったわけだと納得する。しかしにとってそれはさほど重要なことではなかった。彼女が会ったのは攘夷志士で最も危険と呼ばれる男ではなく、静かだが普通に会話し蜜柑や菓子を食べ美味しいと言い、そしてなかなかに笑うただの男だったのだから。何にしてももう会うことはないだろうとはその夜のことを忘れ、いつもどおりの日々を過ごしていたのだがしばらく経って、店仕舞い間近に彼は現れた。礼だと有名な高級茶と花と蝶が舞う上品な手拭いを持って。それからというもの、高杉は土産を手に訪れるようになったのだ。



「この間いただいたお香とってもいい香りですねえ」
「そりゃよかった」



いつ見てもよく笑う。高杉は感心した。普段穏やかに微笑んでいる彼女は土産を渡したとき、少し頬を染めはにかんで笑う。その顔は格別に好い。それが見たいが為にもう持ってこないでと言うのを聞き流して用意してしまうのだ。今日持ってきた物をカウンターに乗せるとは眉尻を下げて笑う。これも悪くない。のほうも、もう言っても聞いてくれないのだろうと諦めたのか素直に包みを受け取った。毎度その場で開けていいかと律儀に尋ねる彼女に高杉が頷くと丁寧に包装を解いていく。現れた箱の中には簪が。出してみると透ける桃色の翅が綺麗な、少し大きめの蝶の飾りがひとつ付いている。ほう、と息を漏らし礼を言うの顔は高杉の求めていたものだった。それからとりとめのない話をし二人で最後の団子を平らげた頃には小一時間ほど経っており高杉はそろそろ、と立ち上がる。彼が来るたび自分が出す団子やお茶とは比べものにならないような手土産を貰っているため、お代はいらないと断るがそれすら聞き入れず充分過ぎる代金を机に置いた。ゆっくりと入口へ歩いて行き戸に手をかけたところで背を向けたまま高杉は顔だけ少し振り返りの名を呼ぶ。



「…今度、祭りがある」
「お祭り?鎖国解禁二十周年の祭典のことですか?」
「あァ」
「晋さんお祭りお好きですもんねえ」
、その日は家で大人しくしてろ」
「え?」



何かあるんですか、と言葉を続ける前に高杉は「祭りには行くな」とだけ残し去って行った。しばらく入口を不思議そうに見ていたが、あの人がそういうのならばと一人小さく頷く。残りの片づけが終わり風呂に入って寝支度を調え、布団にもぐり込んだは貰った簪の蝶の翅をそっと撫で明日さっそく使わせてもらおう、と枕元に置きゆっくりと眠りに就いた。